定年以降の人生は余生だから、年寄りらしく分別を持って静かに生きれば良いのだ、と語る人は少なくないように思うが、本当にそれで良いのだろうか?
定年を過ぎてもあまり分別が出てきていないように自覚する私だからこそ、その問題を改めて考えてみた。
定年以降は余生じゃない!
日本人の男性の平均寿命は約80歳だが、その80年間を大ざっぱに分類すると3つに分けることができるだろう。
・成人までの20年
・現役時代の40年
・定年以降の20年
定年になってから寿命を迎えるまでの年数を考えれば、先が短いと寂しい気持ちになるのも無理のないところかもしれない。
しかし、自由時間はどうかと言うところに注目すれば、定年以降の方がはるかに長い時間があることに容易に気が付くだろう。
・現役時代の40年:睡眠8、就業8、自由8(8×40=320)
・定年以降の20年:睡眠8、自由16(16×20=320)
このように、就業時間を8時間と考えれば現役時代と定年以降との自由時間は同じになる。
しかし、実際には通勤時間とか残業時間とかが加わるので、定年以降の自由時間の方が圧倒的に長くなることは火を見るよりも明らかだろう。
したがって、人生を考える上では現役時代よりも定年以降の方がより重要だとも思えるから定年以降が人生の本番だと考えても良いと私は思う。
だから、「定年以降は余生」などというのはとんでもない間違いだと言うのが私の結論だ。
現役時代は定年以降の下積みだ?
現役時代に完全燃焼した人は幸せだと思うが、そういう人は多くないと思う。
私も例外ではないから、現役時代の人生に満足はしていない。だから、定年以降の長い自由時間で挽回して、納得できる人生に持っていきたいと思っている。
かといって、今までの人生に後悔しているわけではない。「今までの努力の結果で自分ができているのだから今の自分が最高だ」と思い続けて生きてきたのだ。
その点で言えば、「現役時代は定年以降の下積みだ」と言って良いかも知れない。
現役時代にはそうは思っていなかったが、これからはそう思って生きていくとしよう。
老人だってハンデなんかない
老人になると容姿は衰え、体力も精力も衰えるのだが、それらを理由にして諦めることはあってはならないと思う。
容姿の衰えは気にしない
歳をとって白髪やシワで容姿が衰えても、どうしようもないから気にしないでおこう。周りの人だって、そんなことを気にしてはいない。
また、老眼になったら眼鏡をかければ済むことだ。
ただし、容姿が衰えた上に不潔となれば老害でしかないから、清潔な身なりを心がけることは超重要だ。
体力の衰えはカバーできる
筋肉の限界を100とすると、プロの選手であっても80くらいまでしか使っていないのが一般的なのだそうだ。
我々一般人だとその半分の40くらいだとすれば、限界までには有り余る余力があるということになる。
だから、歳をとって体力が衰えたとしても、余力の範囲を少なくするように鍛えていれば運動能力の低下は充分にカバーできるのだ。
実例として、私は週に2回フィットネスジムで体を動かすようにしているが、そこでは30代前後の人とほぼ同じ動きができている。
だから、この先10年ぐらいは体力の衰えを意識することはないだろう。
精力減退は?
筋肉はいくつになっても鍛えることができるが、精力を鍛えることはできないのでは無いだろうか?現に私自身も精力は確かに減退している。
しかし、ネットの情報によると80代でも可能な人がいるそうだから、それはつまり死ぬまで異性と関係を持つことができると言うことになるので、決して諦めてはいけないと思う。
若い女性に出会って意欲を高めることも薬を使って機能を高めることもできるのだから、精力減退は気力で克服しよう。
若さとは前向きに頑張ること
年配の人を見てみると、60代でも随分と年寄りに見える人もいるし、70代といっても信じられないほど若く見える人がいる。
だから、高年齢になれば実質的な年齢はあまり意味を持たないのではないだろうか?
年齢を言い訳にして努力をしない無気力な人は老けていくし、高年齢でも意欲的に頑張っている人は若さを保っているということだろう。
したがって、プラス思考で前向きに頑張る姿勢が「若さ」というものだろうと私は思っている。